感情・感受性が豊かで有ればあるほど、人は苦しみ悲しみある時は耐え難い苦痛にも感じられます。釈迦の教えに、愛別離苦があります。生別、死別、この世には様々な別れがあります。
私は過去に、幾多の死別を経験して参りました。
その経験で言える事は、死別は人生の卒業なのである。
別れの辛さは残りますが、自分もいつの日か帰る日が来る。
その日まで、學びを深めて行く所存である。
以下は、私が教誨師をして居た頃の体験である。
その方は、末期癌でホスピスに入所されておられました。
【人間は生きた様に死ぬ】
献身的な介護、看護は他で見て居るほど生易しいものでは無い。
死を目前にしても、わがまま放題の人のお世話をする事はその場に遭遇した者で無くては、分からない現実がある。その人は、最後の最後までわがままを通したが死ぬ間際に一言、怖いと言って息を引き取ったのである。
身内も友人も居ない葬儀、参列者は役所の職員と看護に携わった方々と私だけである。死しても尚、持ち続ける生前の意識が強く死を拒み、認め様としない姿は本当に哀れであります。【他の参列者には、視える筈も無い。】 しかし、このままにして置いては未浄化霊に唆され、現界を彷徨う事に成ると判断した私は、霊界の御使者にこの方の魂を委ね帰幽させて頂きました。
生前に好き勝手に生き己が欲望のままに過ごした結果、最後まで感謝の心を知らず逝ってしまった。
この人は、幽界で學びを得るであろう
【幽界での學び】
此処で普通の人は、地獄を連想するかも知れ無いが、仏教で云う地獄とは違います。
真の地獄とは、教える者の居ない世界である。
己れと同じ考え方や行動をする者達が集まり肯定の無い否定の世界である。この世界から脱却するには、己れが真から反省し後悔の涙を流し続けねばなりません。その後、真の反省が達観に変化した時、救いの御手が差し伸べられ學びの幽界へといざなわれるのである。
霊界の學びを知る時、人は真のしあわせに氣づくであろう。そして慈悲と慈愛を知り、法則を知る者と成るのである。
南無大日大聖不動明王尊
金剛合掌
金剛山赤不動明王院
院主 永作優三輝
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