今迄に多くの方の葬儀・葬式に携わって参りましたが、その日は葬儀を頼まれた住職が急病の為に急遽、私が頼まれ伺う事に成りました。しかし乍ら故人の事を何も知らない事には、失礼があっては申し訳が無いので、住職の寺に故人について伺う為に参りました。
【住職談】故人は、たびたび御近所といさかい【トラブル】を起こし評判が悪い方であり、内容は次の通りである。
相手が大人しい人だと何かと難癖を付けて、いたぶり相手が強い場合には家から出ず、周りの様子をうかがう姑息な人で信仰心など全く無い人だったが、 親類の方々が葬式を上げない訳には行かないと考え、今回の葬式になったのである。
一通りの話しを住職から伺い私は、葬儀場に急いだ。
到着した時には、葬儀担当者が待って居て寺院用室に案内され私は、其処で法衣に着替え式場に向かうのである。
その日の式場は、到着した時から異様な空気が漂って居たが、私には解って居た。
故人を連れに来たもの達の匂い【普通の人には解らない】である。
祭壇の前に立った時、全てを理解した故人は死を全く理解せず、そればかりか参列して下さって居る方々に向かって、何しに来やがったとか罵声や
訳の判らない事を叫んで居るのである。
このまま葬式を終わらせては、他の方々が大変な事に巻き込まれては大変なので、私は御本尊様の御力を頂き七縛りの法を掛け、
まず大人しくさせ読経を始め諭すが、本人は激昂するだけなので、これは次の手を使いたく無いが、使う事を決断したのである。
上記の法は、地獄の使者に引き渡す為の法である。
この法によって冥界に行くと命日、彼岸、盆にも現界と意識を繋ぐ事は絶対に出来無い法である。但し、本人が心底反省し許しを乞い、それを高級霊が聴き御仏の許しが出た場合は、普通の方々の様に出来るのである。人間は死んだら終わりと考えて居る人は、多いで有ろうが人間として學べるのは、今世だけなのである。
【今世とは、今の自分としての人生である】生きて居る間の學びは、自分の為の學びなのである。
人間は生きた様に死ぬ。 死の苦しみは、一瞬の事であるが死後の苦しみは、終わる事の無い苦しみと考えて居た方が良い。
南無大日大聖不動明王尊
金剛合掌
金剛山赤不動明王院
院主 永作優三輝