人間は今迄に多種多様な道具を発案し改良を重ね、現代社会では欠くべからざる物にまで進化させて来たが、昨今では機械を使って居るのか、機械に使われて居るのか、区別し難い状況にあると思う事がある。必要に迫られ考案されて来た道具から生産性向上の為に作られる道具は、または人間以上の能力を発揮する道具まで留まるところを知らない様相である。
このままで良いか、疑問に感じるかは、個々の想像性と感性により異なるで有ろう。変わらない事は、人間が主導である事を忘れてはならないのである。
そして密教に於ける道具【法具】は、如何なる優れた機械で有ろうと使いこなす事は、不可能である。 何故かと言えば、密教の法具を使いこなすには、目的、思想、念力が伴わなくては意味を成さないからである。密教法具は、古代インドにて原型がなされ、一説には手術道具として発展したとも言われて居る道具類であるが、私は異説を抱いて居る。【私の説は、新生密教塾に於いて読んで頂きたい】人間界に於ける道具は、あくまで人間が正しく使ってこそ、その役割を果たす物であり、一部の不心得者が手にして他に害を及ぼすようでは、本末転倒と言えよう。
例えビンで有ろうと使い方を誤れば凶器と化す様に、全ては使う者の心で変わるのである。上記で私が何を言わんとして居るかは、賢明な皆さんであればお解り頂けるで有ろう。人間は道具に使われるものでは無く、道具を有効に使う者で有って欲しいものである。
南無大日大聖不動明王尊
蓮華合掌
金剛山赤不動明王院
院主 永作優三輝
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