私の半生は肉親の死を皮切りに、試練の連続だった様に想います。【肉親、五人の死】己れの死を考えた事も幾たびもありました。しかしその度に支えて下さったのが、御本尊様でした。
傍目にはどんなに強く見える者でも、試練に際しては脆く弱いものである。
慟哭し血涙を流し乍らも耐えねばならないと解って居ても、頭で考えるほど生易しい事ではありません。
どんな苦しみも試練も乗り越え様とする努力が必要ですが、努力だけでは不可能な事もあります。
私の場合は霊能者であるおかげもありますが、霊聴に依り助けられた事が幾たびもありました。
打ちひひがれ身も心も疲れ果てていた時、優しく包んで下さったのが御本尊様であります。
尊像は、飾りでは無い。
拝む者が如何に折衷させて頂くが本義であり尊像を迎えたからでは、片手落ちと言わざるを得ないのである。
礼拝供養とは、拝み礼を尽くし供え養う心の現れである。
それらを怠り御利益本意の考え方から脱却せねば、真に御仏と折衷する事は叶いません。人事を尽くして天命を待つと言う言葉がありますが、正に的を得た言葉である。
真の御仏【尊像】は、常に私達の事を見護り慈悲の光を放って下さって居るのです。
心構えで大切な事は、余る事は望まず、足るを知る良識である。
正しい良識に至る者であれば、上記の意味は理解出来るはずである。
南無大日大聖不動明王尊
蓮華合掌
金剛山赤不動明王院
院主 永作優三輝
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