他人の誤ちを責めれば、倍のカルマを積む事に成る。兎角、他人の誤ちを責めたく成る気持ちは分かるが、それが自らのカルマを積む事に成る事を知れば出来無いであろう。責める事は簡単であり、許す事は難しいであろう。増してや内情も知らず上辺だけを観て責め立てる行為は、如何なものであろうか。責める責め合う行為に、未来もしあわせも無い。その逆に認め認め合う姿勢、行為には発展、未来、調和、様々なしあわせへの道が開けて居るのです。寛容とは、無条件に全てを許す事ではありません。 智慧と理性の裏付けが必要なのは言うまでもなく、根底に愛が無ければ傲慢に成り兼ねないのである。そして親が子に子が孫に教え伝える時、其処に開くのは、日本に古くから伝わる寛容の教え文化である。罪を犯せし者であろうと真に反省し善に務める時、霊界もそれを認め許しの道を開かれるのである。許しの道は偽りでは、未来永劫、開かれる事は無い。 人間界では偽りを見破れ無くとも、霊界では通用しない。
全ては、白日の元に晒され偽った事の罪も加算され、無間地獄、阿鼻地獄に學ぶ事に成るのである。
地獄は、落とされると考えて居る人が多いと思うが、それは誤りである。
地獄は、落とされるものでも与えられるものでも無い。
己が率先して選択し、進み行く階層である。
密教の経典には、明確にそれが記されている。
解釈は自由だが、本質を変える事は何人も出来無い。
南無大日大聖不動明王尊
金剛合掌
金剛山赤不動明王院
院主 永作優三輝