私の長い鑑定歴の中で何をやっても上手く行かない人は、存在します。その人は、好むと好まざるに関わらず不運に翻弄され、他から観ても何故なんだろうと疑問に感じる様な人が、稀におられます。
良い人なのに、異性の縁が無い。
一生懸命に働いて居るのに、親族の理由で出費がかさみ慢性的貧困に喘ぐ、優しく真面目なのに行く先々でイジメ、誹謗中傷の的に成る。
しかし、他を傷つける事を嫌い自暴自棄に成るも、他には明るく振る舞い自分が自分を解らなく成って居るが、朝にはまた同じ生き方に甘んじて居る。
この場合は霊障を疑っても、おかしく有りません。
何故か?
上記の人は、魂が高いから耐えてこられたのである。
普通の人であれば到底、耐えられる状態では無いからである。しかしどんなに魂が高くとも、限界は訪れる。 それを責める事は、出来無い。
過去の私も、そうで有った。
外国で空手を教え、将来は武術の道で嘱望され帰国後に、母が死に母の後を追い父は死を選び、その後の私は仏門に帰依するが乞食坊主と疎まれ。
我が不運を、どれだけ呪ったか。
されど捨てる神あれば拾う神あり。
恩師である師僧に、巡り合いました。
しかし、この道も帰る寺の無い私には厳しかった。
本来、僧侶に成る人は実家が寺である事が多く、学問も無く帰る寺も無い者には、いささか無情であると言わざるを得ない。
私は、一般的な職業と僧侶の二足の草鞋を履いた。
生来の氣の強さが、味方したのか?
社長にまで行った時代もあったが、不況の煽りを受け倒産したが、持ち前の根性は負ける事を嫌った。
未経験の職場で頭角を現し、一年で幹部に昇格、これからは今の家族と楽しく生きられると思った矢先に家族の死、私は全ての望みを失った。
その日から十年、私は一心不乱に霊的真理を學んだ。
そして、現在がある。
人間は自らの力だけでは、どうしようも無い現実がある。
しかしそれを呪っても、解決の道は開け無い。
何故ならば、霊障も試練の一つに過ぎ無いからである。
なれば解決の仕方は、存在するのである。
諦め自暴自棄に陥れば、何の解決にも成らないばかりか、己が因縁に翻弄されたばかりの人生に終わるのである。
誰にでも密教で解く解脱の道は、用意されて居るのである。
但し、その道は自分で選び進む道なのである。恨んでも憎んでも泣いても最後に選択するのは、己れである。
南無大日大聖不動明王尊
金剛合掌
金剛山赤不動明王院
院主 永作優三輝
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