除霊と浄霊は、基本的に違います。各自、興味のある方はお調べ下さい。
その日、私は依頼を受け、ある地方に来ておりました。慰霊供養の依頼である。出迎えて下さった御家族は、一応に悲しみに包まれておられました。
今回の慰霊は自死を遂げた方の浄霊【納得】が、目的である。
現場に立ち、解りました。
深い喪失感、苦しみ、悲しみ、消してしまいたい記憶、耐えられず押してしまった自爆のスイッチ、しかし望む意識の喪失は無かった。
【死んでも意識は消えません。それどころか死ねば生きて居た時依り、鮮明に成る。無いのは、肉体の苦痛だけである】
今回の御供養は、自殺者のご両親からの依頼であります。
子供さんが自殺された日から、お父さんお母さんは毎日のように揃って同じ夢を見て、涙されておられたのである。
【内容は割愛する】
本物の親は、我が子の為なら己が命をも惜しみません。
昨今では、子供と愛玩動物の区別もつかない人も居る様であるが、本物の親は違います。
苦言を呈しても、我が子の将来を案じ教え導くのが親である。
しかし、親の心子知らず、拗ねて甘え甘言に誘われ迷うのも若さ故である。
かん‐げん【甘言】
人の気に入るような口先だけのうまい言葉。甘辞。「甘言につられる」「甘言を弄 (ろう) する」
その甘言が、迷い道とも知らず。
多くの者は途中で気づき我に帰り、正道を歩み生きる事に目覚めるのだが、時として絶望を真と捉え誤った選択をしてしまうのである。
しかし誤った選択は、取り返しが付かないのである。 親の悲しみ・家族の悲しみを知った時、死して後、悔やんでも遅いのである。
私は今迄に、数多くこの題材を書いて来たが力不足を痛感して居る。 死後如何なる浄霊供養よりも、ボロボロに成っても生きていてくれた方が良い。
人生は険しく長い坂かも知れ無いが、自らが命を絶つ事は許される事では無い。
人生を全うし【寿命】死する事は、卒業である。
その逆に自らが死を選び実行する事は、如何なる理由如何に関わらず、中退と知るべきである。
未来は、生きて行くからある。
望みも達成も全て、生きた証の卒業証書なのだから。
南無大日大聖不動明王尊
蓮華合掌
金剛山赤不動明王院
院主 永作優三輝
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