正邪を選ぶも、自由である。以下は、私の経験談である。
私は、武術家の家系の生まれ、幼い頃から武芸に親しんで参りました。
そのお陰で様々な流派の総帥に師事を賜わり、将来を武術家として生きる事を約束されておりました。
しかし運命の悪戯か二十歳の時、両親が相次いで他界、その後の私の人生は大きく変貌を遂げる事に成りました。
一時期、私は荒れました。
腕に自信もあり、ボディガードを生業にした時もあります。
その頃に出逢ったのが、今は亡き恩師である。
恩師との出逢いが無ければ、私は犯罪者に成って居たかもしれません。
私の恩師は僧侶だが剣の達人であり、奥様は心底優しい方でした。人間は出逢いに寄っても変わりますが、選択するのも自分なのである。
正邪選択、他人のせいにするのは卑怯者の言い逃れに過ぎ無い。 本質は全て、我が身の選択である。
辛ければ泣き、寂しければ友を求め、しもじければ働き糧を得る簡単な事である。
但し、全てを他人任にし、他人を羨み、他人を呪う者に明日は無い。
人生に貴賎は無い。
あるのは、生き方で心根の正邪である。
母の胎内に宿り生まれ出し頃は、正に天使の誕生である。
心ある者なら私が言いたい事は、お解り頂けると考えます。 全ては、自由である。しかし本当の自由には、責任が伴う事を忘れては自由では無く、無責任である。本気で自由を語るならば、責任主体を知る者であるべきである。
南無大日大聖不動明王尊
金剛合掌
金剛山赤不動明王院
院主 永作優三輝
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