人は誰でも、悲しみを味わいたくないものである。
しかし、好むと好まざるに関わらず、悲しみが訪れる。
誰も、避けられない事象である。
では、どうしたら良いのか?
普通の人は、こう考えるであろう。
何故、自分だけこんなに苦しまなけばなら無いのか?
何故なのだと、叫びたくなるであろう。
その衝動を抑える事は、難しい。
だが衝動のままに行動すれば、より一層の悲しみに苛まれる事になる。
悲しい出来事から眼を背けても、何ら解決には至りません。
むしろ悲しみが増大し、生きる事をも否定したくなるであろう。
それは、当事者なら当たり前の感情である。
私も、数々の悲しみを乗り越えて参りました。
苦労や苦難は、努力である程度まで消滅させる事が出来ますが、悲しみはどうする事も出来ず苦悩の日々を過ごす事になるで在ろう。
回避する事も逃げる事でも解決出来無い悲しみ、では、どうしたら良いのかと皆さんは思うであろう。
悲しみこそ魂を磨く、磨き砂なのです。
耐えて耐え抜いた時、必ずや光明が見えて参ります。
悲しみを恐れて暮らす依り、悲しみを學ぶ姿勢に光明は訪れます。
人間は悲しみの数だけ成長する。
そして、磨かれるのであります。
悲しみを知らない者は、幸いである。
しかし知らない分、遭遇した時の苦悩は、計り知れない。
なれば、幸せの内に學び耐性をつけて置くのも道と私は考えます。
學びは、人間界のありとあらゆる事象に答えて居ります。
學ば無ければ、知らず、得られず、理解は高嶺の花と同じように届かない所にある。
何を學びにするかは、自由である。
一つ言える事は、間違った事を、勘違いして學んだふりをしても、事象に遭遇した時には、何の役にも立たない事を知るであろう。
南無大日大聖不動明王尊
蓮華合掌
金剛山赤不動明王院 院主 永作優三輝