私は、物心ついた頃から父に依り武術の手解きを受け、小学生になった頃、他流を學ぶ為に空手の道場に通う毎日であった。

そこで、出会ったのが同年代のかいなの無い【腕の無い】拳士である。
彼には、両腕が無いにも関わらず凄い拳士である。
脚だけで、五体満足の者に負けず劣ら無い、勇猛果敢な拳士である。
私は、彼といつの間にか意気投合し、友人となりました。
そんなある日、彼が私に教えてくれました。
自分は、サリドマイド奇形児として生まれたたと教えてくれたのである。

後に彼の家に招かれ、彼のお母さんからも伺いました。
そして、ある日私は彼と組手【試合】をした時に彼から言われた。
僕の友達ならみんなと同じ様にして欲しい。
手加減など嫌いだと言われ戸惑いました。

彼は、知って居たのである。
私が、彼と同じ様に脚だけを使い戦って居た事を…
私は、恥ました。
己れが良いと考えて居た事が、彼を苦しめて居たのだと言う事を…それからは、手加減など一切抜きで練習に明け暮れました。
私が、今あるのは良き友人に恵まれた事である。
肉体的障害も個性、精神的障害も個性、では我々、健常者と言われる者達に必要な心とは何か?
氣づかいである!
氣とは使うものに、非ず利かすものである。
そして、氣と気は別物である気を使う。気苦労など無用である。
相手をおもんばかり氣を利かす心は、最高のお持て成しである。

腕が有ろうが無かろうが、脚が有ろうが無かろうが大した事柄では無い!
大切なのは心である。
彼彼女が、足りない所をさりげなく補う優しさが氣を利かすである。
これは、何も障害のある方だけに限らず、ご老人や弱き人達を助けてこそ、魂高き者の証しである。

南無大日大聖不動明王尊
蓮華合掌
金剛山赤不動明王院 院主永作優三輝
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