人間は境遇に依り様々な人生を生き、歩み、ある人は富に恵まれ、ある人は貧しさに反発し、ある人はその境遇を自らの力と錯覚し傲慢になる。
境遇とは學びの課題であり、羨む事でも卑下する事でも無い。
以下は、逆境を乗り越え生きた方の実話である。
私の友人のお母さんは幼い頃、顔に重度の火傷を負い苦労されました。
【友人談】幼い頃、母の容姿について他の人から心無い誹謗中傷を受け泣いて帰った時、お母さんは息子に謝ったそうである。
お母さんがこんなだからお前がイジメられる。ごめんね、母は涙を溜めていた。
その夜、仕事を終えて帰って来た父とお風呂に入り、今日の出来事を話した。
その時に父が言った言葉を今でもはっきりと覚えている。
そして心の宝とし胸に刻んだ父の言葉とは、人間は姿形で判断しては行けない。
例え宝石で身を包み豪華な服装をしようと、心が卑しければ身も卑しいのである。
【外面菩薩内面夜叉】
お父さんは、お母さんとお前が大好きだから、何を言われようが氣にしない。
小学生の時、私の家も貧乏でした。
その頃は、テレビがある家が珍しく、私もテレビが見たかった。
ある日、友達の家でテレビを買ったと聞いた私は、見せて貰いに家を訪ねた。
すると家人から貧乏人は、汚ないから見せられ無いと言われ、泣きながら帰った記憶がある。
人間は時として、自分の境遇を錯覚し傲慢になる事がある。
真の學びを知らない者は不幸である。
錯覚の中に暮らし、傲慢の海に漂う筏の上に居ても氣づかず彷徨う。
そして母の容姿でイジメられた少年は、大人に成り立派な人生を歩んで居る。
そして彼が子供達に教える事は、差別の無い心を身に着けて生きなさい!貧富を羨まず。
良い教えである。
貧富の差も容姿の差も所詮、生きている間の幻のようなものである。
南無大日大聖不動明王尊
蓮華合掌
金剛山赤不動明王院 院主永作優三輝