振り返れば私の半生は、階段を登っては転げ落ち、また登り、転げ落ちるの繰り返しでした。
苦しみ・悲しみ・怒り・慟哭する。何度も投げ出したい衝動に駆られ生きて参りました。
人間は、弱いもの。
頭で分かった振りをしても心は正直なもの、失った悲しみと虚無感は拭えません。
上記に身を任せれば、憐憫の情に流され正気を失いかける己れに喝を入れ立ち上がり。
また階段を登って行くの繰り返し。
そんな私に岐路が訪れたのは、心靈學との出会いである。
私は、寝食を忘れ没頭した。
そして現在、氣づいた事は灯台下暗しであった事である。
心靈學を學びふと振り返ると、私は同じ事を履修していた事に氣づいたのです。
それは、私の側に何時もあったのである。
私は、再度読み返し確信した。
そして自分の理解力の無さを恥じた。
心靈學と経典は、同じ船上にあったのです。
(原稿の補足、私は、大義の意で地球を一艘の船と捉え、線上を船上と表現してます。)
経典の示す教えは、正に心靈學そのものであり、読むから理解に進む時全ては解ります。
説話でも精神論でも無い、真実だったのです!
では何故、説話・精神論と解釈されて来たのか?
それは、靈的な観点を排除して読んで来たからである。
人間は、元来弱いもの眼に見え触れる事が出来るものを信じ、理解出来ぬものを排除する癖がある。
その結果、現在の物質的価値観に陥ったと言えよう。
物質的価値観は肉欲を増長し、精神世界には至り難い。
その証拠に悪事は、全て物質的価値観の影響が大である。
疑問に思う方は、俯瞰してお考え下さい。
南無大日大聖不動明王尊
金剛合掌
金剛山赤不動明王院 院主永作優三輝