
今も昔も、言った言わない、やったやっていない、様々なところや場面で眼にし、聴いて来た。
しかし、真実は一つ。
この世の人間が幾ら偽っても、最後は霊界に帰り、その罪の贖罪をせねばならないのである。
人間は偽っても、天を偽わる事は出来ない。
何故か?
人間は肉体を持つ事で欲を得ます。
しかし肉体を失った時点で、ある一部の者を除いて無欲に氣づき、振り返る。
自己嫌悪に苛まれ、暗闇に隠れるが如く反省の時を過ごし、氣づけば長い時を過ごしていた事を知る。
そして、再度、一から學びを望んで転生するのである。

輪廻転生については、次回詳しくお話しします。
この世で、幾ら地位や名誉を得ても、死する時は何も持って行けないのである。
例えば、金を有り余るほど持って居ても、若さや寿命を買う事は出来ません。
また、地位や名誉の為に伸びる若き芽を摘む行為は、恥以外の何物でもない。
その逆に、若き芽をのびのび育てる手助けをする時、慈愛に目覚め、若き芽は敬う心に目覚めるのである。
蓮の花で例えれば、泥田の中で空を見ず、己れの実だけを大きくし、美しい空を見る事無く、最後は刈り取られる蓮根。
その逆に、花を咲かせ生きとし生けるものに、美しい華を咲かせて魅せる蓮華の花。
正に対象的な事象である。

この世が、泥田の中で美しい華を咲かせる蓮華の花であれば、兇悪な犯罪、嘘で固めた保身主義者、全ての悪は身を潜め、この世は変わります。
やがて、身を潜めていた者も改心の心に目覚め、現界は霊界と同化するであろう。
其処には悲しみも怒りも存在しません。
あるのは、他を思いやる慈しみの世界です。
人間に生まれて、心醜く生を全うするか、貧しくとも感謝の念で過ごすか。
全ては自由意思なのである。
南無大日大聖不動明王尊
蓮華合掌
金剛山赤不動明王院 院主永作優三輝
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