願掛け断ち物とは、自身の願いを神仏に聴いて頂く為に、自身の一番好きな物や、大切な事を断つ行為である。
昔の人身御供も、同じ観点から生まれたものである。
しかし霊的観点から見れば、何の意味も無い行為なのである。
そんな事をするよりも、精一杯の努力と祈りを捧げる方が何倍も有効である。
願掛けによって、逆に因縁を背負ってしまった実例を沢山観て来ました。
一例を挙げます。
ある神仏に商売繁昌の願掛けをし、叶えば御社台を自宅にお祀りすると誓いました。
それから暫くして、商売は繁昌しました。
1年が過ぎ、2年が過ぎ、3年目、商売は思わしくゆかなくなりました。
困り果て、人づてに私の元へとお出でに成りました。
私には、その方が来た瞬間に解りました。
願掛けの失敗である。
ご本人は、神仏と約束した事をすっかり忘れて居たのである。
そして、3年目に現れたのである。
忙し過ぎて、御社台の建立を棚上げにしたまま時が過ぎて居たのである。
私は依頼者と一緒に、願掛けをした神仏が祀られている場所に行きました。
謝罪し、請願を立てました。
神具師の仕事場に行って立派な御社台を作って頂き、それを依頼者の家に安置して供養を行いました。
それから半年くらいは苦しかったようですが、今では前以上の繁昌店に成りました。
では何故、半年以上苦しかったのか?
それは、当たり前である。
自分が2年以上も約束を守らず、建立したから直ぐに元どおりにして欲しい。は誤りである。
様子を見られたのである。
この者が本当に改心したかの様子見である。
今では毎日、神仏を中心とする生活をされておられます。
神仏には、出来ない約束はしてはいけません!
約束をしたのなら守りましょう。
守れないのなら、最初からしない事である。
南無大日大聖不動明王尊
蓮華合掌
金剛山赤不動明王院 院主永作優三輝