![]() 愛にはいろんな形があります。 親子愛、夫婦愛、人類愛など。 様々な愛の形について書かれた記事をシリーズで特集して参ります。 どうぞご覧ください。 >>愛に関する密教ブログ1 >>愛に関する密教ブログ2 >>愛に関する密教ブログ3 >>愛に関する密教ブログ4 ■怯えて生きる 人間は、怯えて生きるより、希望を持ち、清々しい気分で生きる為に生まれて来たのです。 しかし、毎日のように繰り返し起きる事件事故。 何故、起こるのか? 貴女は、考えた事がお有りですか? 密教の理想は、安心立命。 安心する事は、命を立たせるのである。現代は、不安と怒りに満ちていると、私は考えます。 では、何故、不安や怒りに駆り立てられるのか? それは、學びを知らない事から起きているのです。 無知は、暴力と混濁を招き、暴力と混濁は破滅を招きます。 言わば、私達が招いているのと同じなのです。 片方で、安心を求め、片方で快楽に耽る。 これでは、なんの解決にも成りません。 無償の愛に目覚め、學ぶ時、必ず道は開けます。 その逆に、怠惰に生きる時、其処に残るものは虚無しかありません。 學ぶ事を選択し、生きる楽しさを知る時、貴女の人生は輝きます。 ■日本刀に宿る花嫁の怪 私が寺にいた頃、不思議な依頼が来た。 骨董商のAさんが、日本刀を供養して欲しい…と言うので、詳しく話しを聴くと、最近仕入れた二振りの日本刀が来てから、毎夜同じ夢を見てうなされると言うのです。 内容を聴くと、花嫁と少年の夢で、二人共血だらけの姿で現れると言うのです。 寺に刀を持って来るのも…と思い、私はAさんの家に行く事にして支度をした。 Aさんの家で、二振りの刀を持った時… 全てが判った。 一振りは嫁入り刀、一振りは元服刀。 元服刀とは、十五歳の成人を祝う刀である。その日、息子の元服の宴が開かれ酒を飲んでいると、祝いの席に敵が討ち入り、全員を殺し、最後に息子を元服刀で殺害したのです。 息子は死を理解出来ず…未だ刀と共に、現界にいるのです。 晴れて二人は婚礼の日を迎え、喜びは万感迫るものでした。 二人は身分違いの間でも愛し合い、やっとの思いで迎えた婚礼の夜に、悲劇が待っておりました。 盗賊が押し入り、一家皆殺し… 最後に残った花嫁を恥ずかしめたのである。 花嫁は、懐にある嫁入り刀で胸を突き絶命したが、愛する夫への申し訳なさに成仏出来ずにいたのだった。 私は、霊界からの使者と行く様に促したが、夫に合わす顔が無い…と聞き入れず。 地蔵尊に願い、夫を召喚した。 夫も妻を探して、探して…最後は、疲れて霊界の片隅にいたのです。 私は、孔雀明王法にて二人を浄化して、新たに二人の縁結びを修して、来世は仲睦まじい夫婦になる事を御仏に願い、二人は手を携えて霊界へと帰って行きました。 供養の様子を見ていた人達の目にも、涙が流れておりました。 ■メッセージ 私達は、様々な形でメッセージを受け取って居ます。 しかし、受け取り方の間違いに氣づかず、誤った解釈をして行き詰まりを経験して参ります。 中でも、その最たる例が男女間の問題である。 男女が互いに求め合い結ばれる事を結婚に置き換えれて考えれば、解り易いと考えます。 結婚は、互いに學び合いなのである。 金、金に執着する夫婦は、金により様々な學びを繰り返し、金に苦しみ、其処から貧困をも學ぶ事になります。 夫婦は、互いに學び合うパートナーである。 良きにつけ、悪しきにつけ、お互いに學び合うのである。 其れを理解出来ずに、互いに主張を繰り返す時、其処にあるのは不和という現実が発生します。 広義で言えば、人間関係そのものが學びと言えます。 また、狭義で言えば、夫婦関係は最良のパートナーを見いだしたと言えます。 共に學び、共に成長する時、本当の目的は達成されたとも言えるのではないでしょうか。 素晴らしいパートナーを獲得するのも、人生の目的なのです。 物質的価値観からは、本当のパートナーを見つける事も難しいのです。 愛するがゆえに許し合い、和合し學び合う時、あなたは最良のパートナーに巡り会えると考えます。 ■歯車 人間は、人生と言う學びの中で様々に経験と変化を体感します。 自分一人の経験の中では、歯車と云う現象を味わう事はありませんが、 例えば、仕事、恋愛、グループ活動の中で、上手く行かなかった経験をした方は、少なく無いと思います。 上手く行かなかった場合、自分が去るか、活動そのものが崩壊するか? 状況に応じて様々であります。 では、何故、上手く行かなかったのかを考え俯瞰する人は少ない。 何故か? 自分の気持ちを優先するからでは無いでしょうか。 口で言うのは簡単ですが、俯瞰する事が出来れば同じ失態は繰り返しません。 哲学の中に、人間は考える葦である。 と言う一節がありますが、様々な事象を分析し、次に備えることが出来るのは入門だけである。 正に葦が日進月歩、伸びる様に、人間は自身を俯瞰出来る唯一の生きものです。 自身を見つめ、自身を反省し、明日に繋げて行く努力こそが、私達に与えられた使命であり學びなのです。 あの人が、彼奴がと他を責める前に、全ての事象を振り返り、分析し反省して明日に臨む時、あなたの明日は変わります。 人間関係は、歯車の様に複雑に絡み合い、また助け合う大切さも教えています。 明日への努力をせず、ただながら的に生きる時、あなたの周りには同じ波長の者しか集まりません。 挫折をバネにし、明日に向けて學ぶ時、あなたは歯車では無く、独立した個人としての人生に氣づきます。 私達は、それぞれにお役目を持った人生の代表選手なのです。 絶望、悲観、愚痴、怠惰は、人間から學ぶ意欲を奪い、衰退させる毒素と同じです。 あなたの人生をより良くする為に學んで下さい。 學びの門は、何時でも、誰にでも開かれて居るのだから。 ■心の居所 喜怒哀楽、人間の心は、状況に応じて様々に変化しますが、其れは全て學びを進める為には、必要不可欠な変化なのです。 平坦な中で學べるほど人間は、未だ進化して居ないのです。 その証拠に様々な犯罪は、後を絶ちません。 哀しい限りであります。 私は、此処で犯罪者の論理を語るつもりは、ありません。 しかし、平坦な道は、人を苦しめ無いが、學びも、もたらしません。 坂あり、谷あり、崖あり、の中で自身が正しい志しを持つ時、道は開かれます。 その逆に、不平不満を抱いて生きる時、波長の法則に依り、同じ様に、不平不満を持つ者が集い、 欺瞞と破壊を糧と成す集団と化します。 不平不満の旗印を掲げ、戦に生きる時、全ての門戸は、閉ざされ暗黒の闇に身を晒し全てを失います。 悪口、罵詈雑言、誹謗中傷、イジメ、全ては、自身を滅ぼす毒と変わります。 神仏を信じざるも良し、他人を信じざるも良し、誰も信じざるも良し。 しかし、自身の心に嘘、偽りの塊を凝固してしまった時、人は、人では、無くなります。 人が真に求める境涯は、安心であり、愛なのだと私は、考えます。 迎合する行為は、愛とは、言いがたいと考えます。 様々に意見交換を繰り返し、正論に耳を傾ける姿勢を持つ事に依り自身の成長が促されると考えます。 正論を退け、自身の持論を展開するも良し、しかし、全ては、自身に帰ることを、踏まえて置かなくては、なら無い。 純真無垢な心の時代は、例外無く誰もが経験して来たのだから。 ■心の調味料 人生の中で食べる行為をしない人は、皆無に等しいですが 本当の意味で美味を味わう事は、少ない《美食ではない》と考えます。 女性の立場に立って考えてみてください。 料理を作るのは当たり前、料理が出来て当然の様に思われているのではないでしょうか? 私は僧侶。料理も当たり前にこなし、全ての家事もこなせます。 私は貧しい家に生まれ育ちましたが、心に残る料理を持って居ります。 小麦粉を水で溶き、団子のようにして作った粗末な料理ですが、母が作ってくれた《すいとん》未だに忘れられません。 そんな思い出は、皆さんお持ちではないでしょうか。 今から考えれば、何故、粗末な料理が美味しかったのか? 貧困でも空腹でもありません。其処には、心の調味料が加えられていたのです。 粗末な材料で子供達に少しでも美味しいものを食べさせたいと思う母の調味料が入っていたのです。 主婦も料理人も変わりありません。 食べる人に、美味しいものを食べて貰いたいと心を込めて作る時其処には、愛があります。 例え一流の料理人が作った料理でも、ただ「ながら的」に作った料理には、何の深みも感じません。 其処にあるのは、虚構の美食。 心を打つ感動は無いでしょう。 また、食する側にも問題があります。美食、飽食を繰り返した結果、心で食する事を出来無くなっているのである。 その結果、感謝も感動も忘却し、ギスギスした人生を送る事に成って居ると考えます。 今、必要なのは、心の調味料ではないでしょうか。 料理に限らず、心の調味料を理解した時、あなたの人生は一変します。 素直に思い出してください。寒さの中で食べたあの味噌汁の味、喉の渇きを癒す為に飲んだ石清水、全て、愛があります。 石清水には自然の愛がある様に、其れらに愛を見だすのは自分であると氣づくはずです。 殺伐とした心には修羅が宿り、卑しい心には餓鬼が宿り愛無き心には鬼畜が宿ります。 全ては、与える者、受ける者の心次第で変わります。 純真な心の時代を思い出して、愛を真から理解し得た時、あなたの人生は変えられます。 ■愛の存在 昨今愛の無い事象を視るに付け、此の国の未来を案じる次第である。 正に、愛情の裏返し《無関心》の横行は、眼に余る物がある。自分さえ良ければ良いは、最後には破滅を意味する事も知らず。 我が世の春を謳歌するが如く振る舞い、他を顧みない所業は、己がカルマを呼び寄せ、増大させているのである。その反対に、愛を捧げ続ける人々は約束されます。 魂の浄化向上こそ、真の御利益なのである。 御仏の心は、正に大慈悲。あなたが真の信仰心に目覚める時、御手を差し伸べ、あなたを御救い下さいます。 《信じるは、我にあり》 御仏に帰依する事こそ、誠の信仰心に目覚める事なのです。 御仏の前では、貴賎はありません。 あるのは如何に生きたか、だけが全てであるのです。人間は母の胎内に宿り、十月十日、母の愛に満たされ、生まれて来ます。 その時は、無垢の状態である。厚顔無恥な者など存在しません。 皆、愛の旅人だったのです。 思い出して下さい。 優しい母の面影を。 ■尊敬、敬愛 私の若年時代は、しあわせである。 唐手の師匠、剣術の師匠、古武術の師匠に教えを頂き、 父母亡きあとには、法華経の師僧、密教の師僧に教えを賜わり、現在があります。 そして、敬愛する文学者の諸先生方に教えを賜わり、感性の大切さを學ばさせて頂きました。 思えば、各、諸先生方には、尊敬と敬愛の念を禁じ得ません。 拙僧も早、上記の諸先生方の御歳に近づき、回想するも、 人間にとって、尊敬、敬愛の念が如何に大切であるかを再認識して居ります。 文武両道、何方が欠けても、今の自分は、無かったとしみじみと考える今日この頃である。 人間には、波長の法則が付き纏い何人なりと此の法則から逃れる事は、出来ません。 心に尊敬と敬愛の念を持つ者には、師の導きがあり、心に卑しさを持つ者には、餓鬼がまとわりつく、 これは、変えがたい法則のなせる業である。 しあわせを望まぬ者は、無いが、真にしあわせを望むのであれば、先ず、尊敬と敬愛の念を學び持つ事である。 しあわせを実現する事は、容易である。 自身を認める時、しあわせは、駈歩であなたのもとにやって来ます。 しあわせは、追うものでは無く、招き入れるものである。 招き入れ方は、簡単明瞭です。 敬い尊ぶ心を養えば良いのです。 ■報恩謝徳 恩に報いることに依り、様々な謝徳を得ると云う事は、古来依り受け継がれて来た美徳であります。 例えば、自分は、御返しが頂きたくてやった事では無いのに、 考えもしなかった出来事で幸せな生活を得る事が出来た。 これは、正に報恩謝徳である。 私達は、ともすれば、見返りを望んでしまいますが、我が子に対して、見返りを求めますか? そう見返りを求める事は、無いでしょう。 正に無償の愛があるからです。 見返りを求めて行う行為は、傲慢であり、物質的価値観と言わざるを得を得ません。 結果を求めず、結果を追わず、常に感謝し生きる人は、幸いである。 その逆に、こうして、ああして、やったのにと考える時、其処には安心どころか、不幸の種が芽生えて居るのである。 一度、不幸の種が芽生えて仕舞えば、尋常一様な事では、刈り取ることは、出来ないのが現実なのです。 この世《現界》に生を成し學びに意欲を燃やして居た時の自分を思い出すことは、容易です。 自分が詰まらない小我を棄て、本来の自分に戻り、素直な心で、自身を認める時、 報恩謝徳の意味を理解出来るのである。 ■無機質と傲慢 昨今、無機質な人が、増えて居るのは何故か? 犯罪者を観て頂けば解るように、正に無機質そのものが現れています。 その一例、弟を殺し、遺体をバラバラに切断する。 あなたに出来ますか? 私には、出来ません! それは、何故か? まだ、理性が働いているからです。 無機質なものには、それが無いのです。 あるのは、そこにある現実だけで、感性も理性も無い。 傲慢さしか、無いのである。 機械と同じで、其処にある善悪も理性も情愛も無く、ただ処理する機械なのです。 例えば、良い人が機械を使っているから、機械がその人を機械の中に巻き込まないですか? 逆に、悪い人が使っているから巻き込みますか? 機械は、全て同じである。 無機質に作業をするだけである。 無機質な人間は、自分に都合の悪い者を排除したと云う感情しか無いのです。 イジメも同じである。 自分に都合の悪い者を、排除して居る感覚なのです。 その根底にあるのは、傲慢さである。 全て自分の都合で考え、行動し、意に反する者を排除しようとする利己的感情こそ、傲慢であり無機質なのです。 では、何故そんな感情が芽生えるか? まだ、人間に成って浅い魂だからである。《魂年齢の低さ》 では、どうしたら良いか? 學びである。 學ぶ事は、楽ではありません。 楽な學びなど存在しません。 《楽な學びがあるとするならば、それは、學びではなく、遊びであると知るべきである》 楽あれば苦あり、苦あれば楽あり。 私が主催する密教塾は、學びは自由である。 しかし、學ぶ者と、そうで無い者の差は歴然と出て来ます。 學びとは、他の人に強要されるものではありません。 自らが心に落とし込み、俯瞰を繰り返し、成長するのである。
by kongousan-akafudo
| 2020-04-16 12:00
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