躾とは身が美しいと書くが、本当の躾とは、立ち居振る舞いを含め、心の躾であります。
幾ら、着飾り、立ち居振る舞いが出来て居ても、心の躾が出来て居ない場合、本当の美しさは表現出来ません。
昔の言葉に、人品骨柄卑しからずと言う言葉がありますが、正に、言い得て多恵なるものがある。
金を持ち、着飾り、清楚を演じても、心卑しければ気品無し。
気品とは、心が織りなすオーラ《後光》である。
オーラなど私には見え無いから関係無い、と考える方は別として、何故、仏像には光背がついて居るのか?
例えば、不動明王尊の光背は火焔。
大日如来尊の光背は円形。
光背
後光,御光ともいい,仏菩薩の放つ光明を象徴するもので,仏教彫刻や仏教絵画においては必ずこれが表現されるのはインド以来の伝統である。
仏の光明は色光と心光とに分けられる。
色光とは仏身より外に向かって発せられる光,つまり身光である。
心光とは仏にそなわる智徳円満の光,すなわち智恵光である。
仏は内に智徳が充満することによって,おのずから外に光輝があらわれると考えられた。
仏像仏画に表現されるのは色身相としての光明である。
出典 株式会社平凡社世界大百科事典 第2版
それは、卓越した技量を有する先人達が後世に伝えるべく、能力を屈指して表した、芸術とも言える仕事のおかげである。
何事にも言える事ですが、努力もせずただ安穏として居ても、得るものは無いばかりか理解も及びません。
オーラを自身の眼で確かめたければ、訓練をする事である。
弛まぬ努力を重ね続ける事に依り、卓越した技量も身に着くのです。
棚から牡丹餅など無いのだから。
南無大日大聖不動明王尊
蓮華合掌
金剛山赤不動明王院 院主永作優三輝