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密教629 母の愛

御本尊様を頼り、毎日、様々なご相談が御座います。
その中でも特に胸を打たれるのが母の愛である。


昨今は、そんな母の愛を裏切る様な振る舞いが多く見受けられます。

真面目に生きれば必ずや大成したで在ろう人生。
家族と寄り添い、家族を護れば護られた人生。
大学に行かせて頂いたのに遊び呆け転落する人生。
全て自己責任である。

しかし母の愛は、いつまでも我が子を愛し続けて居るのです。

涙しながら、我が子を迎えに行く母の後ろ姿を見て、笑える人はいないで在ろう。

今、振り返り母の愛を想う時、人は優しさを思い出すで在ろう。
母のい無い人は存在しない。
思い出の中に居ないだけである。

悪事をはたらく時、母の愛を思い出し自らを見れば、自身の醜さに驚愕するで在ろう。

しかし、我が子を思わない母はいない。

以下は戦時中、戦火の中にあっても息子を思い続けた母の話しである。

岸壁の母
第二次世界大戦後、ソ連による抑留から解放され、引揚船で帰ってくる息子の帰りを待つ母親をマスコミ等が取り上げた呼称。
その一人である端野いせをモデルとして流行歌の楽曲、映画作品のタイトルともなった。

流行歌、映画「岸壁の母」のモデルとなったのは、端野いせ(1899年9月15日 - 1981年7月1日)。

明治32年(1899年)9月15日、石川県羽咋郡富来町(現在の志賀町)に生まれ、函館に青函連絡船乗組みの夫端野清松、娘とともに居住していたが、昭和5年(1930年)頃夫と娘を相次いで亡くし、家主で函館の資産家であった橋本家から新二を養子にもらい昭和6年(1931年)に上京する。

新二は立教大学を中退し、高等商船学校を目指すが、軍人を志し昭和19年(1944年)満洲国に渡り関東軍石頭予備士官学校に入学、同年ソ連軍の攻撃を受けて中国牡丹江にて行方不明となる。

終戦後、いせは東京都大森に居住しながら新二の生存と復員を信じて昭和25年(1950年)1月の引揚船初入港から以後6年間、ソ連ナホトカ港からの引揚船が入港する度に舞鶴の岸壁に立つ。

昭和29年(1954年)9月には厚生省の死亡理由認定書が発行され、昭和31年には東京都知事が昭和20年(1945年)8月15日牡丹江にて戦死との戦死告知書(舞鶴引揚記念館に保存)を発行。

しかしながら、帰還を待たれていた子・新二(1926年 - )は戦後も生存していたとされる。
それが明らかになったのは、母の没後、平成12年(2000年)8月のことであった。

ソ連軍の捕虜となりシベリア抑留、後に満州に移され中国共産党八路軍に従軍。その後はレントゲン技師助手として上海に居住。
妻子をもうけていた。新二は母が舞鶴で待っていることを知っていたが、帰ることも連絡することもなかった。

理由は様々に推測され語られているがはっきりしない。
新二を発見した慰霊墓参団のメンバーは平成8年(1996年)以降、3度会ったが、新二は「自分は死んだことになっており、今さら帰れない」と帰国を拒んだという。

旧満州(現中国東北部)の関東軍陸軍石頭(せきとう)予備士官学校の第13期生で構成される「石頭五・四会」会長・斉藤寅雄は「あのひどい戦いで生きているはずがない」と証言し、同会の公式見解では「新二君は八月十三日、夜陰に乗じて敵戦車を肉薄攻撃、その際玉砕戦死しました」と述べられている(北國新聞社平成18年(2006年)10月4日)。

端野いせは新人物往来社から「未帰還兵の母」を発表。
昭和51年9月以降は高齢と病のため、通院しながらも和裁を続け生計をたてる。息子の生存を信じながらも昭和56年(1981年)7月1日午前3時55分に享年81で死去。「新二が帰ってきたら、私の手作りのものを一番に食べさせてやりたい」と入院中も話し、一瞬たりとも新二のことを忘れたことがなかったことを、病院を見舞った二葉百合子が証言している。

平成12年(2000年)8月に慰霊墓参団のメンバーが、新二が上海市で生存していたことを確認。
京都新聞が新二の生存を報道。
中国政府発行、端野新二名義の身分証明書を確認。
だが、その人物が本当に新二であるかについてはいまだに疑問がある。
平成15年文藝春秋に「『岸壁の母』49年目の新証言」が掲載。
Wikipediaより引用


遠く離れた島で戦う息子を思い、母は毎日、祈りました。
《あの子の命が救われるのであれば、私は、どうなっても構いません》

そう祈り続けて居たある晩のこと、深夜に母は、立ち上がり叫んだ。
《手を離したらいかん!》

その時、息子さんは敵兵に追われ、崖にぶら下がり身を隠して居たのである。

しかし、手は痺れ、精根尽き掛けた時、お母さんの声が聞こえたのです。
《手を離したらいかん!》

ハッと我に返り、崖を登り、見た時には敵兵は去った後でした。

やがて終戦。
日本に帰国し、親子は涙の再会を果たし、その後、息子さんはお母さんに聞いてみました。

お母さん僕は、戦地でお母さんの声に助けられて帰って来れたのだよ。

お母さんは恥ずかしそうに言いました。

我が子を思わない親など、どこの世界にも居るもんかね。
私はお前が危ないと思ったから叫んだんだよ。

その後、親子は仲良く暮らしました。

南無大日大聖不動明王尊
蓮華合掌
金剛山赤不動明王院 院主永作優三輝


by kongousan-akafudo | 2017-08-24 06:00 | 赤不動明王院通信
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