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密教636 凶行

狂人は救う事は出来無い。

ミサイルをまるで花火のように打ち上げ悦に入っている姿は、最早、狂人以外の何物でも無い。

完全な悪魔憑依《乗っ取られ》である。
ここまで来ると、憑依を引き離す事は不可能である。

昨今の日本の犯罪者にも、完全憑依の者が増えている。
これは、日本の危機を暗示して居ると言わざるを得ない。

例を挙げれば、人を殺して見たかった、誰でも良いから殺したかった、

馬乗りになって女性を撲殺した狂人、小学校に進入して次々殺した、まだまだあります。


精神耗弱状態とか精神鑑定とか、様々に理由は着くが、被害者はもう帰って来ないのである。
犯罪者に人権があるのなら、被害者にも当然あるはずである。

私は死刑には反対である。
何故か?
反省をしていない者を、死刑に依って自由にする必要は無いと考えるからである。

犯罪者には、罪に依り100年〜200年の刑を与え、死後は霊的呪縛に依り刑期満了まで拘束する必要があると考えます。

然るに現状の日本では、霊的教育も霊的真理も否定されているの不可能なのです。


そして、犯罪者が死刑執行後に自由になり、反省していない魂は憑依を繰り返し《一般人を巻き込み》

魂年齢の低い者に憑依し、犯罪を繰り返すのである。

明治の悪法《廃仏棄釈、神仏分離令》が発布される前までの日本は、世界一の心霊国だったのである。
歴史にも証拠があります。
興味のある方は、學んで下さい。

廃仏毀釈
仏教寺院・仏像・経巻を破毀し、僧尼など出家者や寺院が受けていた特権を廃することを指す。
「廃仏」は仏を廃し(破壊)し、「毀釈」は、釈迦(釈尊)の教えを壊(毀)すという意味。
日本においては一般に、神仏習合を廃して神仏分離を押し進める、明治維新後に発生した一連の動きを指す。

大政奉還後に成立した新政府によって慶応4年3月13日(1868年4月5日)に発せられた太政官布告(通称「神仏分離令」「神仏判然令」)、および明治3年1月3日(1870年2月3日)に出された詔書「大教宣布」などの政策をきっかけに引き起こされた、仏教施設の破壊などを指す。

神仏分離令や大教宣布は神道と仏教の分離が目的であり、仏教排斥を意図したものではなかったが、結果として廃仏毀釈運動(廃仏運動)と呼ばれた破壊活動を引き起こしてしまう。

神仏習合の廃止、仏像の神体としての使用禁止、神社から仏教的要素の払拭などが行われた。
祭神の決定、寺院の廃合、僧侶の神職への転向、仏像・仏具の破壊、仏事の禁止などが見られた。

1871年(明治4年)正月5日付太政官布告で寺社領上知令が布告され、境内を除き寺や神社の領地を国が接収した。

(中略)
廃仏毀釈がこれほど激しくなったのは、江戸時代、幕府の間接統治のシステムとして寺社奉行による寺請制度による寺院を通じた民衆管理が法制化され、権力から与えられた特権に安住した仏教界の腐敗に対する民衆の反発によるものという一面もある。
藩政時代の特権を寺院が喪失したことによってもたらされた仏教の危機は、仏教界へ変革を促し、伝統仏教の近代化に結びついた。
Wikipediaより引用



神仏分離
神仏習合の慣習を禁止し、神道と仏教、神と仏、神社と寺院とをはっきり区別させること。

その動きは早くは中世から見られるが、一般には江戸時代中期後期以後の儒教や国学や復古神道に伴うものを指し、狭義には明治新政府により出された神仏判然令(神仏分離令。慶応4年3月13日(1868年4月5日)から明治元年10月18日(1868年12月1日)までに出された太政官布告、神祇官事務局達、太政官達など一連の通達の総称)に基づき全国的に公的に行われたものを指す。

明治元年、明治新政府は「王政復古」「祭政一致」の理想実現のため、神道国教化の方針を採用し、それまで広く行われてきた神仏習合(神仏混淆)を禁止するため、神仏分離令を発した。

神道国教化のため神仏習合を禁止する必要があるとしたのは、平田派国学者の影響であった。
政府は、神仏分離令により、神社と寺院を分離してそれぞれ独立させ、神社に奉仕していた僧侶には還俗を命じたほか、神道の神に仏具を供えることや、「御神体」を仏像とすることも禁じた。

神仏分離令は「仏教排斥」を意図したものではなかったが、これをきっかけに全国各地で廃仏毀釈運動がおこり、各地の寺院や仏具の破壊が行なわれた。地方の神官や国学者が扇動し、寺請制度のもとで寺院に反感を持った民衆がこれに加わった。 これにより、歴史的・文化的に価値のある多くの文物が失われた。

新政府は神道国教化の下準備として神仏分離政策を行なったが、明治5年3月14日(1872年4月21日)の神祇省廃止・教部省設置で頓挫した。
これは特に平田派の国学者が主張する復古的な祭政一致の政体の実行が現実的には困難であったからである。
神道の国教化は宣教経験に乏しい神道関係者のみでは難しく、仏教界の協力がなくては遂行できないことは明白であった。
そこで、浄土真宗の島地黙雷の具申をきっかけとして、明治5年に神祇省は教部省に再編成、教育機関として大教院を設置、教導職には僧侶なども任命されて、神道国教化への神仏共同布教体制ができあがった。
神道国教化にはキリスト教排斥の目的もあったが、西洋諸国は強く反発、信教の自由の保証を求められた。
結果、明治8年には大教院を閉鎖、明治10年には教部省も廃止し、内務省社寺局に縮小され、神道国教化の政策は放棄された。
代わって神道は宗教ではないという見解が採用された。

神仏分離政策は、「文明化」への当時の国民の精神生活の再編の施策の一環として行われたものであり、修験道・陰陽道の廃止を始め、日常の伝統的習俗の禁止と連動するもので、仏教界のみならず、修験者・陰陽師・世襲神職等、伝統的宗教者が打撃を受けた。
Wikipediaより引用


まず自身で検証する事が一番である。
検証もせず、ただ迷信だと決め付ける事は科学を知らない証拠である。

国会図書館にもその証拠は秘蔵されている。
自身で真実を探求する時、あなたは科学者である。


南無大日大聖不動明王尊
蓮華合掌
金剛山赤不動明王院 院主永作優三輝


by kongousan-akafudo | 2017-08-31 06:00 | 赤不動明王院通信
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