全ての道に完全保証は無い。
昔から、『私は俺は、あんなに拝んだのにあれだけやったのに、御利益が無い』と言って居る人を見て来た。
が、全ては精神的物質欲に固まり、する祈りは通じません。
何故か。
それは、祈りでは無く依存だからである。
依存とは甘えであり、甘えを聞いてはくれません。
甘えを聞いて動くものが居るとしたら、それは下心ありと言うしか無い。
何故ならば、様々な事象、試練は學びである。
駄々っ子の甘えを許す親は、本当の意味で子供が可愛く無いのである。
正しい親なれば、間違えを正し、導くばずである。
導け無いのは、自らも未熟である場合と無能な場合である。
御仏は、耐えられ無い試練は御与えに成りません。
また、本人が反省と感謝を知った時、全ての試練から解放され、真の自由を御授けに成ります。
礼拝供養は自分にして居る事を悟る時、全ての疑問も苦しみからも解放され、真理に近づきます。
お計らいは真理への架け橋であり、精神的物欲を満たすものではありません。
御仏とある暮らしは、あなたの人生を輝かせる為のものであります。
南無大日大聖不動明王尊
蓮華合掌
金剛山赤不動明王院 院主永作優三輝