連日発生する、事件事故は魂の未熟さに依るものが大多数であります。
魂の未熟さには、ある理由が存在する。
これを説明する事は、此処では難しい。
何故ならば、様々な要因が絡み合う法則を、僅かな文章では伝え切れないからです。
当院の密教塾では長年、上記の事柄を講義の中で咀嚼し、解説しております。
全ての事柄には、必ず法則が存在致しますが、現代社会では忘れ去られ、學ぶ者も少ない。
その答えは、全て経典に書き記されているのです。
しかし、解説し教える者が少ないのが現状で御座います。
この法則は両刃の剣と同じく、解釈を間違えば大変な事にもなり兼ねません。
例えば、密教経典の理趣経などその典型であろう。
《色、空、生》を教えて居るが、捉え方を間違えれば、全く異質な教えに繋がるのである。
それと同じで、法則の捉え方を間違えば、飛んでも無い事態を起こし兼ね無い。
質疑応答が不可能な場では、言及を避けているのが本当のところなのである。
算数のたし算引き算の様に、簡単には説明仕切れないのがこの法則なのです。
然るに、昨今の事件事故の本質を見抜くには、法則を理解して居なければ解明は難しいであろう。
昨今の流行りのインスタント脳では、到底理解する事は難しい。
しかし、それを咀嚼し、教え、伝える事は急務と考えます。
他の僧籍にある方々がどう考えるかは私には知る由も無いが、経典を身近に置き、読み下せるのは、やはり僧籍にある者の勤めでは無いだろうか?
一般の方々がイメージして居る経典とは、葬儀で唱えるお経の感覚でしょう。
しかし、経典の本義は教えであり、葬儀だけの為にあるのでは無いと断言致します。
私の考えで御座いますが、寺は本来學びの場であり、学舎なのです。
その学舎が真理を語らなければ、真理を伝える所は皆無に等しいと言わざるを得ない。
様々な経典を紐解き、現代に伝える事こそ、御役目では無かろうか?
私は、これからも伝え、教え続けて参ります。
學びは、棚から牡丹餅的発想では、得る事は出来ません。
自ら求め、學習する事に目覚めなければ、得る事は出来無いのです。
南無大日大聖不動明王尊
蓮華合掌
金剛山赤不動明王院 院主 永作優三輝