密教には、様々な行法が存在する。
昔は、行法の数だけ、阿闍梨は、居ると言われました。
例えば聖天行者、宇賀神行者、飯綱行者、稲荷行者、まだまだ居られました。
しかし、余りにも苛酷な行法と、ある無理な事が原因で、専門行者の数が激減して行きました。
それは、どんな事があろうと、行者が自分の為に秘法は使え無いのです。
使えば、行者としての命は終わります。
言わば、それほど霊験あらたかだとも言えます。
一例を挙げれば、ある行者が己が私利私欲の為に秘法を試してみました。
すると、壇上に秘法の本尊が現じました。
汝は、行者で有りながら自身の欲を我命ずるか。
その後、行者は雲水と成りその地を去り、二度と行者には戻れなかったと言います。
本来、行法《秘法》は、依頼者《願主》の為に修する事が本筋ですが、行者も人間、誘惑もあります。
私の持論ですが、行者は人間であっても、道具として己れを律し、道具を貫ける者で無ければならないのであるのです。
連日の依頼に、我が身を道具と化し、また導師として、願主の願いを達成へと導く強い精神力が必要なのです。
親を敬い、妻を愛し、子供を愛でる。
神仏を尊ぶ心。
其処には、自身を無と化し、精進する行者の姿が見えて参ります。
我が為す技は、我が為すに非ず。
南無大日大聖不動明王尊
蓮華合掌
金剛山赤不動明王院 院主 永作優三輝
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