信仰とは、誰にも左右される事無く自由に持ち続けられる心の栄養である。
その昔、武術家で生きる事を夢観て単身アメリカに渡り、様々な経験を積みました。
帰国後は高名な先生方に指導を賜わり、前途を嘱望された時代。
日本武道館に菊の紋章を胸受けて参内した頃、その後の数奇な運命を知る由も無かった。
その出来事は、突然に訪れた《両親の死》
その後、出家。
しかし、在家から出家した者に風は冷たかった。
阻害と無視。
しかし、武術で培った精神はやわでは無い。
そんな小さな事では微動打にもしない。
そんな時、本物の師僧に巡り会えたのが分岐点であった。
師僧は、様々な秘法を惜しげも無く御教授下さった。
正に、信仰は心の栄養と確信したのはこの頃である。
修行が厳しいのは当たり前。
嫌なら辞める自由は、誰にでもある。
しかし一旦、覚えて身につける喜びを知る時、苦は苦で無くなるのである。
武術を動の修行とすれば、僧の修行は静である。
どちらの修行も己れが選びし道、貫き導き出すしか無い。
修行に楽は無し。
そして歳を重ね振り返れば、自分の道は自分で切り開く事に氣づくであろう。
御本尊様の前に座して読経する時、生まれて来たしあわせに氣づく今日この頃です。
南無大日大聖不動明王尊
蓮華合掌
金剛山赤不動明王院 院主永作優三輝