昨今は死語の様に成った言葉。
しかし、根底では生きている行為が親孝行である。
私の元にある一件の相談があった。
相談者のお母様がご病気で入院して居るが、思わしく無いと言う。
よくある相談ですが、私の寺ではまず医師に診察して頂き、その上で相談をお受けして居ます。
身体に関わる事は、早期発見、早期治療が一番であり、それを誤れば良い結果など望め無いと言うのが私の考え方である。
素人判断で治療など及びもつきません。
私の母は貧困の為、医師にも掛からず亡くなりました。
今は、誰でも医師の治療が受けられる時代である。
私の加持祈祷は、最期の手段であり医師の治療とは異なる。
相談者のお母様は、医師も首をかしげる状態である。
私は決意した。
仏母〇〇〇〇延命持仙秘法を修しようと。
この秘法には解毒効果があると言われ、古来より修されて来た秘法である。
修するには様々な供物が必要であり、揃えるには困難を要する。
しかし、相談者のお母様を想う気持ちを知り、揃える決意をした。
相談者にはこの事は伏せてある。
何故か、負担を掛けたく無いからである。
もし私の母が生きて居て同じ事があれば、私はどんな困難をも厭わず揃え、一命を掛けても修したであろう。
増してや、お母様が入院中。
大変であると察する。
私は僧侶。
人に布施が勤め。
子が親を想う心は同じである。
孝行したい時に親は無しの例えあり。
誰でも親は大切な人、悔いのないようにしたいもの、後悔後に立たず。
私はこの親子の笑顔が見たい。
修する手に力が入る。
南無大日大聖不動明王尊
蓮華合掌
金剛山赤不動明王院 院主永作優三輝
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