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密教126 驕りたかぶる

行者の本分は、御仏に仕える事《御仏の道具たるべくの修行》 で御座います。

私は、過去に様々な行者を観て参りました。
そのなかで言える事は、自分は偉い凄いと思い、驕りたかぶる時、御仏の門は閉ざされます。

行者は道具で良いのです。
偉くなる必要は、ありません。
但し、へりくだる必要もありません。
要は、自然体で良いのであるのです。

私達は自然の一部であり、それ以上でもそれ以下でも無いのです。
良く、テレビや壇上から、御高説を賜わりますと、私は恥ずかしく成ります《苦笑》

人間が偉いのでは、ありません。
人間は、何かの弾みで驕りたかぶる者に変身しますが、私はあくまで道具を貫きます。

仕事も食べ物も全て、御仏からの賜わり物。
おろそかには、出来ません。
生かされている身をわきまえる時、生かされている喜びを感じられるのです。

自分が、《我》に生きる時、我に翻弄されて見失ない、迷いの森に喘ぐことに成るのです。

行者は、謙虚、理性、智慧を頂き、生かされている身を知る時、密教の門は大きく開き、そこからが本当の修行なのであるのです。
驕りたかぶる心と訣別を果たし、御仏の慈愛を感じ、受ける時、無上の喜びを知ることが出来るのです。

南無大日大聖不動明王尊
蓮華合掌
金剛山赤不動明王院 院主 永作優三輝


by kongousan-akafudo | 2016-03-16 06:00 | 赤不動明王院通信
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