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越法に関する密教ブログ

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■秘仏

本当の意味で秘仏を知る人は、一般人では、皆無であろう。
例えば、宇賀神尊は、弁財天経の中に大変おめでたい仏と記されて居る事は、お好きな方は御存知であろう。
しかし専門的な知識となれば、知らなくても当たり前である。


宇賀神様は、大変有り難い仏様で、中でも微笑ましい経典があります。《三日貧転宇賀神法》

この経典は、三日で貧乏を転換し福をもたらすと言う内容の経典であります。

読誦しても、顔に笑みが浮かぶほど、優しく温かい経典で御座います。


しかし、誤った流言飛語をまことしやかに語る者も多いのも事実である。

当院には、宇賀神尊の専門秘密経典を秘蔵して居るのも事実である。
ゆくゆくは、全て出版予定である。
そして、世に真価を問う事に成るであろう。

密教秘法は、部外者が目にすれば、たちどころに《越法罪、越三昧耶》などの罪に問われると言われますが、それは、それで結構であります。

越法罪(おっぽうざい)とは、『三昧耶戒』を破ることによって生じる仏教(特に密教)における罪の一種であり、密教行者第一の重罪とされる。

越三昧耶(おっさんまや)ともいう。密教で禁じられる三種の重罪の一つ。」

しかし、私は多年にわたり、研究、解読しておりますが未だ何もありません。

現代人で、読み書きの出来無い方は、別にして、正しく、熱意のある方なら、本来、誰でも、學ぶ事が出来るのが、本来の密教であり、特定の人だけのお教えでは、無いのです。


間違った解釈は、世に害毒しかもたらしません。
当院の出版する経典は、全て原文で出版します。
そうする事が間違った解釈を打破する最良の方法と考えたからである。
そして密教の正しい解釈にも繋がると考えての事である。

《経典解読と修法は別物》

次第書とは、設計図であり、教科書、解説書、である。

其処に伝法が加わる事で、始めて可能に成るのである。

従って、独学は、困難を極める。

私は、幸いな事に、若い頃、良き師僧に恵まれ、師僧から師僧への紹介を賜わり、現在があります。現在、護摩法が各地で謹修されておりますが、密教隆盛時代の様な、七十種に及ぶ護摩法は、現在、謹修されていないのが現状である。

では、隠れた護摩法は、現在では必要無いのか?

違います。伝法されていないのが現状です。

《秘密主義と難解さが原因》

私は、現代の人々に、密教の素晴らしさを感じて頂き、理解を促す事が、これからの密教の発展に繋がる事と考えます。 そして、科学する事に繋がると考えております。

秘密主義を打破し、迷信、俗説を打破し、真の密教の素晴らしさを理解して頂くには、その経典の開示が近道です。ただし、それを行うには修行と伝法により始めて法を修する事も理解できると思います。護摩法や読経や仏像が何の為にあり、行っているのか?を学ぶのも信仰を助ける一助となると確信しています。


そして、そんな物など存在し無いと言う者が現れても、つまらない論議にもなら無い証拠と成ることは、自明の理である。


《宇賀神尊像の浴酒祈祷の道具・在家向け大弁財天勤行集》
宇賀神尊像に浴酒供養をする道具と修法があり、それを毎月定期的に当院で厳修出来ているのが「存在の証拠」です。
また、この「大弁財天勤行集」に宇賀神尊像を拝むお経が何本も収録されています。

(当院 所蔵 宇賀神尊 浴酒法 聖天尊像 浴油法 用 オタラ)

(参考 聖天尊像 浴油祈祷の修法次第書)

(参考 大弁財天勤行集)


また、真摯に學ぶ方々の教科書にも成ると考えたからである。
私の秘蔵する経典群は、全て本物である。大学に鑑定して頂いても構いません。
私の夢は、一人でも多くの方々に正しく密教を理解して頂きたいただそれだけである。

■秘伝書、古文書

私の寺には、日本中に散逸して居る。
秘伝書を始め、古文書が堰を切ったように集結して居ります。

毎日、その資料の解読に奮闘しています。
そして、何時の日か、誰でもが學べる学舎を作りたいと願って居ります。

宗旨宗派を超え、其れらの秘伝書・古文書を学術的に、また様々な視点から真剣かつ自由に學べる学舎を創るのが私の夢である。

秘伝書、古文書の類いは、一般に入手する事は困難を極める。
また、僧侶であっても難しいのが現状であり、ましてや一般の方々が眼にする事は無いのが現状です。

何故、不思議に走る人が居るのか?
何故、オカルトを好むのか?
その答えは、簡単である。
知らないから、解らないからである。

しかし日本の現状は、秘密主義が壁を作り、一般の方々が學びたくとも、學べ無いのが現状であります。

《密教の秘密主義 越法罪》
密教秘法は、部外者が目にすれば、たちどころに《越法罪、越三昧耶》などの罪に問われると言われますが、それは、それで結構であります。
しかし、私は多年にわたり、研究解読しておりますが未だ何もありません。
その逆に、様々な資料は集結し、お教え下さる方もいらっしゃいます。

越法罪(おっぽうざい)とは、『三昧耶戒』を破ることによって生じる仏教(特に密教)における罪の一種であり、密教行者第一の重罪とされる。
越三昧耶
(おっさんまや)ともいう。
密教で禁じられる三種の重罪の一つ。


私の理想は、一般の方々が幅広く學び、僧侶は、専門分野を履修し厳修する事である。
それが可能になれば、密教の真髄を皆さんに理解して頂けると考えます。

そして、平和活動にも寄与、出来ると考えます。
理解と調和、無くして、平和が訪れ無い様に。

密教を一般の方々が真から理解される時、棚から牡丹餅も不思議も無い、と理性的に解釈される方々が増える事を願い、活動して参ります。

■いよいよ始動

当院所蔵の経典群が、解読班の精鋭によって現代語訳に解読される時が来ました。

当院所蔵の経典群は全て300年以上前の貴重な資料であり、門外不出の資料ですが、密教の普及の為に全て公にします。
そして、真剣に密教を學びたい人々の為に役立てます。

最早、一部の人間が威張り散らし、有耶無耶な内に煙に巻いて居る時代は終わったのであります。

弘法大師空海が渡来して広めた密教を、誰でも學べる時代なのである。
昔の人は、まず読み書きが出来る人が少なかったので、必然的に経典を解読、理解出来なかっただけであり、古語を現代文と訳を付ければ、誰でも理解可能なのである。

越法だの、馬鹿げた迷信によって他見を免れた時代の遺物では無い、本物の経典を私は世に出します。

当院の資料《経典群》は、博物館の学芸員が見れば本物だと分かるものばかりである!
監修などせずに、原文と現代文をそのまま載せます。

後は、皆さんの向学心の有無だけである。
もちろん、向学心がある方々には、私が直接指導をします。
但し、不思議好みの方や、商売目的の方はご遠慮下さい。

真剣に密教を學びたい人々の為に、今回から始める事にしたのであります。
人は學ぶ事に依り成長し、學びを実践する事によって解脱も可能になります。

机上の空論を大言壮語する輩は、私の寺には必要無いのであります。
真摯に學びを深めたい方々は、今から私の刎頚の友である。

■越法

昔から僧侶の間で囁かれる事に、越法罪がある。
越法罪とは、僧侶《灌頂を授かって居ない者》以外の者に、法を教えれば地獄に堕ちると云う言葉である。

越三昧耶
『三昧耶戒』を破ることによって生じる仏教(特に密教)における罪の一種であり、密教行者第一の重罪とされる。
越三昧耶(おっさんまや)ともいう。密教で禁じられる三種の重罪の一つ。

『三昧耶戒』の四重禁戒として、灌頂を受けていない者に灌頂の大事を明かしたり、非器(器量・資格のない者)に灌頂や聖教、口訣(くけつ、口伝のこと)・真言陀羅尼を授けたり、阿闍梨より印可を得ずして聖教、口訣・真言陀羅尼を唱えたり、印契を結んだり梵字を書いたりする、これらの非法行為をいう。

『略出経』4などでは、これら非器の者が行ってもまったく無意味で徒労に終わると説かれている。
三昧耶とは「定」すなわち心の境涯・禅定のことであるが、自誓の意もあり、これを軽んじて行うことは強く誡(いまし)められる。

実写や漫画の忍者や陰陽師などが、九字を切っているシーンなどがあるため、何も知らない在家の俗人が之を行ったりするが、これも本来は越法罪となる。

これらを違越(いえつ)することは、三昧耶の平等・本誓・除障・驚覚という四義に反することで、『大日経』4密印品に「もしこれに異なる者は、諸仏菩薩を謗(そし)るに同じく、三昧耶を越して決定(けつじょう)して悪趣に堕す」とある。
またその解説書である『大日経疏』9なども、衆生と法の上で不平等の見解をもち、平等誓中に制限の心を起し、世間の名利にひかれて仏法の第一義をなさずに、怠けて迷いから覚醒しようとせずと説かれる。

『摂真実経』下では、「越法罪は五逆罪よりも重く、地獄に堕して出期(しゅつご)することがない」とまで説いている。
Wikipediaより引用

私は、大いに結構だと思う。
私が教えた事で地獄行きなら本望である。

現在の教育制度の中で、読み書きが出来無い人は居ないと考えます。

昔は読み書きはおろか、思想、哲学と言った事もままならない時代。
下手に法の手ほどきをすれば、悪事の素になるので嫌い、怖れたのである!

例えば、覚えた法を使って詐欺や様々な犯罪を行うのは、その人間の質の悪さを物語るのである。
真面目に捉えて実践する者が、越法罪になる事は断じて無い。


密教の法は、全ての人が安心立命を得る為に説かれている。
その法は、最早、現代において僧侶だけの特権では無い。
求め學ぶ者に平等であり、秘密主義のベールに覆い包んでカビ付かせては先人に申し訳無いと考える。

もしも、あなたは越法である、と言われた人が居るならば、私が代わります。

御仏の法を正しく理解して學ぶ事に御仏は歓喜し、私達を優しくお見守り下さいます。

一番の罪は、流言飛語を発する者と、尻馬に乗って囃し立てる愚か者である!

私は、如何なる相手で在ろうと敵に後ろを見せません。
己が信じる道を行くまで、闘う時は武人戻ってお相手致します。



by kongousan-akafudo | 2020-02-13 12:00 | ├密教の世界
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